犬のウンコ

仕事から帰ってきたら、アパートの敷地の入り口に、ウンコが置かれているのを見つけた。車両止めのポールの、道側から見れば右側に、多分犬のウンコが3本、見捨てられていて、次の朝には5パーツに分離し、その内4パーツはすでに踏まれていた。Oさんとは、踏まないようにその晩のうちに確認し合っていたから、踏んだのはOさんじゃないと思う。その場所から、10メートル進んだところにも、踏まれた平らなウンコが1パーツあった。その3メートル先にも1パーツあった。ウンコは思った以上に道端に落ちてるものだ。なのに、大人は不注意で、無関心だと思う。小学生の男子は、アパート前のウンコを指さして、「ウンコ踏むなよ〜。」と騒ぎ立てるし、後ろからきた女子は、「あたりまえでしょ。」と軽蔑した顔をする。子どものほうが、ずっとウンコに対しては注意深いと思う。幼稚園帰りの女の子が、道の真ん中を歩くので、お母さんが「危ないから道の端っこを歩きなさい」と言ったら、女の子は「道の端っこを歩く方がウンコを踏むから危ないのだ」と主張するのを、わたしはちょうど見ていて、なるほどと感心した。車よりウンコ。大人になると、ウンコなど危険の範疇にもならない。あんなのもの、踏んでも死なないし、車は轢かれると死ぬし。電車に乗り遅れそうになって、あわててたらよそ見して、つい踏んでしまう程度のものなのだ。職場の人に、ウンコが落ちていた話をしたら、その犬がかわいそうだと嘆いた。犬の糞を始末しないような飼い主は、きっと正しい飼い方をしていない、と言うのだった。ウンコより犬の人生。その人は大人だから、そのように考えても当然だと思う。私は、いつになったら、溶けて消えるか毎日観察しているけれど、あの後2度も雨が降ったし、そろそろいいんじゃないかと思うのだけど、平らなウンコは、コンクリートにこびりついて、なくなりそうもない。5パーツ目は昨日、踏まれているのを確認した。

マクドナルドとカメ

昼休みの外出ついでにお使いを頼まれた。大通りに沿って駅とは逆の方向へ歩いていく。ここからは見えないけれど、道を逸れて左手側に下って行けば海岸が広がっている。でも、わたしは一度も行ったことがない。この町のあらゆる施設のシンボルマークは、海に関するものばかりだなと思う。駅前には、いつものドトールがある。ドトールに代わるものはありませんかと聞いたら、駅の逆の方向にはマクドナルドがあるよと教えてくれた。お使いに時間がかかってしまい、休み時間が30分ほどしかなくなった。戻るだけでも10分以上かかるだろうから、あと40分後に戻ればいいことに決めた。ショッピングモールの1階にマクドナルドはあって、1階のオープンスペースの、ごちゃごちゃにしか見えないイスとテーブルの奥にマクドナルドのカウンターが見えた。気分的にコーラを注文する。家族連れと中学生が、別々に勝手なことを大声でしゃべっている。マクドナルドはドトールに代わる場所ではないな、と気が付いた。となりの子供がアイスを食べながら、立ったり座ったり寝転んだりしている。一緒のおばあちゃんはあっちの方向を眺めて、ぼんやりアイスを形式的になめているだけで、子供にもアイスにも関心がないように見えた。子供はごろごろ転がっている。それを見ているわたしも、だからなんだ、と思った。落ち着かないので、そろそろ行こうと思ったら、スペースの向こう側に金魚屋が見えた。水槽が何台か店を囲むように置いてあって魚が泳いでいた。水槽の途切れた端っこから店内を覗いたら、帳場で頭の薄いおじちゃんが手元を見ながら何かしていた。自分の足元をみたら、緑のプラスチックのバケツに、大きなミドリガメが2匹向かい合って、静止していた。カメの体長に比べたら、バケツは小さすぎた。カメができることは互いにあと3歩後ずさるくらいで、少しのスペースしか残っていなかった。

あれ動物みたいな

貧血もよくなって、近頃は穏やかに暮らしています。夫婦は、あれ動物みたいな存在になるでしょと朝倉摂さんが対談で言っていたのを見て、動物ねそうだねという風に思って、インタビュアーはそれで耐えられるものですか、と聞いたら、耐えられますよ、と答えていました。そうですね、耐えられますね、とわたしも考えたけど、実は昨晩浮気をする夢を見て、これは二人を両立できないものか真剣に考えていたら、Oさんのお母さんがわたしの浮気現場を通りすがりに見かけてしまった。わたしは、すごく驚いて、不倫相手を突き放していやいや違います彼は弟です、とか言っても、義母は大変なものを見てしまったという様子で両手をいやいやと振りながら納得しないので、これは困ったと真剣に悩んだ。浮気相手は、気持ちの弱い人でわたしが見放したらどうなるかわからないと同情してしまい手を切るのも忍びない。道の奥のほうに行って浮気相手と話し込んでいたら、また義母とすれ違い、ここは八王子で、よく考えればいるはずもないのだけれど、行くところいくところ、義母が大変なものを見てしまったという表情で見つけ出すので、心底困った。心底困ったら目が覚めて、Oさんの顔が隣で眠りほうけており、わたしは布団から起き上がって、部屋の電気をつけて、洗濯物をした。洗濯物をして、Oさん起きて、と声をかけたら、ぐずぐず布団にもぐりこんで起き出さないので、とんちゃんにえさをあげた。日常は、変わりはしない。夫婦なんてあれ動物みたいなものでしょ、という言葉が印象に残って、動物みたいなものでしょというのはどうゆうニュアンスか途中まで考えて、動物なんでしょという言葉に負けて、動物なんでしょという言葉に従うことにした。Oさんに夫婦って何だと思う、と聞いてみたら、夫婦って何だろ夫婦って何だろ、夫婦夫婦・・・と言ってぐずぐず答えないで、そのうち、タバコを吸い始めて、吸い終ったあとにパートナーじゃないのと凡庸に答えたので、わたしが動物と思っていて、彼はパートナーと考えていて、意見の不一致ですが、まあどうでもいいことだと思いました。わたしは長生きするので、Oさんが死んだら、動物を1匹飼おうと思います。

貧血ぎみ

赤いネットにぎっしり詰まった栗を見かけては、今年の秋は何回栗を食べれるだろうと考える。甘いマロンじゃなくて、皮つきの生栗を煮て、食べるのが好きだ。包丁で半分に切って、スプーンで実をすくって食べる。ほじくられた皮の残骸が無造作に捨て置かれていくさまは、おにばばにも見えるのでOさんに見せたことがなかった。だから、Oさんは私が栗を好きだなんて知りもしなかったのだ。買ってきた栗を煮てザルにあげたら、まだ生っぽかった。がっかりして、電子レンジでチンしてみようかと、深皿に入った大量の栗をレンジの中に入れて扉を閉めて、少し不安になってはじけ飛びはしないかとOさんに聞いてみたら危険だと言うから、急いでとりけしを押して止めた。皿いっぱいの栗がはじけ飛んだら、大きな音を立てて電子レンジの扉がひしゃげてしまう。明日また、煮る続きをしようと思う。
疲れやすく頭痛もひどく口内炎もできて息切れもする。これは貧血だと思う。貧血だと思うと医者に言ったのに、違うと思うと言い返されてとりあえず採血だけして帰ってきた。結果が出るまでどうしようもないと言うから、来週の結果までどうしようか途方にくれた。適度な運動のために階段を使うのが習慣で、エスカレーターと階段が目の前にあると、スルスル階段のほうにひかれてしまう。今回も階段を上って、あっと思って振り返ったら、エスカレーターは長蛇の列で、なんでみんな長蛇の列でもエスカレーターに並ぶのか、これも習慣でズルズルエスカレーターにひかれただけなのだと思う。階段を上ると息切れがした。頭も痛いし、貧血に違いないのに腹が立つ。腹が立つけど長続きしない。貧血のいいところは、なんだかぼんやりとするところだ。脳を使うには酸素が必要なので、酸素が運ばれないと、思考なんて放棄してもいいかなという気分になる。考えても頭がガンガンしきて、また明日にしようかなと思う。人と話していてもぼんやりして、とりあえずうんうん言って、そのうちめんどうくさくなって、じゃあまた連絡するとかになる。実は、このブログもいつもの倍くらい時間がかかっている。Oさんは、寝ないで起きているので、早く書き終わらなくては申し訳ない。申し訳ないけど、申し訳ないと思うのもどうでもよくなって、しょうがないかなという気分になる。最近の若者は内向的で海外にいかないとニュースになっていて、これも貧血による意志の弱さかと考え始めて、そんなわけないしこの発想を発展させていく気力もないので、心もなんだか穏やかで、貧血も悪くないものです。ただし、頭がガンガンする。

騒音が聞こえる

パソコンの調子が悪くなりました。夕方、部屋は静かです。となりと、上の部屋の生活音が聞こえます。となりのひとが咳を2回して、上からは歩き回る音が聞こえます。上の人は、足音が響くもんだから太った人かと思ったら、ただのOLさんだったことを最近知りました。太った人から動作が雑な人に、あるいは感情の波があって動作が雑になっちゃってる人に、イメージ像が変わりました。咳をした右となりの部屋のひとも、実は動作が雑で、窓のシャッターを夜中でも明け方でも勢いよく開け閉めします。その度に、ガラガラガシャーンと騒音がして、あ、おとなりさん今日も生きていると思います。それに比べて、左となりの若夫婦は静かです。数ヶ月前に若夫婦に会ったときは、奥さんのおなかが丸く張っていてもうすぐ赤ん坊が生まれそうでした。きっと夜泣きがすごいだろうとびくびくしてましたが、いっこうに赤ん坊の気配がありません。そもそも、奥さんは住んでいるのかもわからなくなってきましたが、わたしが家に帰るころには部屋の電気が灯っていますから、きっと住んでいるはずです。それに、秋晴れの日、わたしがベランダで布団を干していたら、おとなりさんも布団を干しているのを見かけました。となりとはベランダが板で仕切られていて、体を乗り出さないと中は見えないのですが、手すりに布団をかけている手が見えたのです。日中。日中だからきっと奥さんだ、と思ったのです。赤ん坊の泣き声が聞こえてきたら、わたしはほっとして、すぐにうんざりするに違いないと思うと、びくびくします。
道端で、坂道の階段の上のほうを見上げたほっそりしたおじさんが、買い物のビニール袋を両手に持って立っていました。上はシャツで、ベージュのチノパンを穿いて、チノパンのおしりが濡れたしみがありました。近くには自転車が立てかけてあって、かごには荷物が入っていました。誰かを待っているのだろうと思いました。しばらくして振りむいた時には、おじさんはもうそこにはいませんでした。自転車は立てかけたままでした。きちんとした身なりのきちんとしてそうなおじさんがおもらしをして、坂の上を見上げていた。エコポイントの話しをしていて、突然、とがったものにぶつかる話しが割り込んできた。表面の世界に割り込みしてくるスムーズじゃないものがところどころに窪んであるので、自分が妙にしっかりしているように感じられる。

座る人

買い物をしに出たら、暗がりの道端に、座り込んだ背中がうっすら白く浮かんで見えた。白い服を着て、短髪で、離れたところに荷物があった。前を歩いていた人は遠巻きによけて通り過ぎた。気になったので、横を通るすきにこっそり眺めたら、老人がひざを広げた体育すわりでぼんやりとしていた。暗がりで顔は見えないから、ぼんやりかも老人かも分らないし、座りたいから座っているので、歩道の真ん中に座ってはいけないなど誰が言ったのかと思わず反省したけど、この白い服のひとはそんなことも考えていないふうにテレビを見る人と同じに座っていた。帰り、また同じ道を戻ってきたら白い服のひとはまだ座っていて、わたしはいったいこの人の前でどう振舞えばいいのかよくわからなくなってしまった。挨拶もできないし、何でもないようにすれ違うこともできそうもない気分で、やはり遠巻きから眺めるのがすじであるような気がした。座り込んでいる白い服のひとの上方には、電車の高架があって、わたしがくぐるときに電車がちょうど通った。電車の車窓の光であたりはいったん明るくなってまた暗くなった。白い服のひとの横を通り過ぎるときについ目を伏せた。わたしはすぐに振り返って、そしたら白い服のひとは立ち上がって、荷物をつかんで、手に握っていたごみを新築マンションの置き看板に、投げて捨てた。そして、そのまま、歩いていってしまった。わたしも思わず向きかえって、そのまま、歩いていった。

秋雨

右の鼻から鼻水が出る。出先でかばんの中のティッシュを探したが、なかったのでトイレに立ってトイレットペーパーで鼻をかんだ。今日は昼ごろから大雨が降りだした。出かけようと思っていたけれど、億劫になって、眠たくなった。昼ごはんを食べて、ザーザーの雨音を確認してまた寝た。起きたらだいぶ雨は弱くなっていた。トイレに入って座ったら便座がひんやりしていた。夏の間は暑いからヒーターを切っていたそのままで、秋が来たから冷たくなってしまった。ドアのL字型の取っ手の影が、細くなったり元に戻ったりして見えた。不思議な現象でしばらく眺めて、そのあと、立ち上がって、部屋に戻った。出かけなかったことを後悔したので、近所のコーヒー屋に行くことにした。雨が止んでいることを祈って外に出たら、暗い夜に霧雨が降っていた。鼻がムズムズした。